2013年4月17日水曜日

死生観。

俳優の三國連太郎さんが亡くなられましたね。

「すーさん」の名で自分としても随分親しみある俳優さんでしたが、テレビという現実感に乏しい世界であっても、やはり生身の人間。
いつかは朽ちてしまうんですよね。

幼い頃、地元のちっちゃな映画館、『中劇』ってとこに釣りバカ日誌の最新作が発表される度にばあちゃんと一緒に観に行ってた記憶があります。
帰りはいつもホッコリした気持ちで手を繋いで歩いて家まで帰る。
釣りバカ日誌という映画には、幸せな思い出が沢山あります。


前にも書きましたが、いくら歳を食ったって、肉体は朽ちても精神や心はきっと朽ちていかないものだと思います。
きっと、今の自分と同じような心持ちのまま、歳を取って、気持ちは若いままだけど肉体がそれに着いていかない。
そんな感じで人生の終焉を迎える、そんな感じかなと漠然と思います。
もし、自分が今の若い状態で、明日『死』を迎えるとしたら、とてもまともじゃいられないと思う。

でも、どんなに言っても、『死』は絶対で、免れようのないもの。


やり残したことや、全力で生きてこなければ、きっとその時に大きな後悔や悔いがやってくるのかなと思う。
今、なんとなく生きてたり、全力で生きれないことを誰かのせいにしていたりしたら、きっと年老いて死ぬ時になってもそれって変わらないんだろうなと思う。

心は若いまま。

なら、全力で生きて、少しでも後悔のない人生にしていくことでしか、『死』を受け入れる術は身につけられないのかもしれないね。。
口じゃ簡単なんだけどさ。

余分なものをきっちり燃焼して。
衝動に向き合って。
行きたいとこに旅したり。


男に生まれた以上、自分の力で出来ることを増やせるだけ増やして。
速度は亀でも良くて、たくましくて大らかで、大きな空のように雄大に生きてくことが、男として生を受けた身としては特権と思って楽しんでいけば良いのかなって、思う。笑
そうしたら、きっと死ぬ時に大きな後悔なんてなく、いやー面白かった、なんて思いながら死ねるのかな。


つまり、燃焼しきって死を迎えるなら、それは良いことなんじゃないかなってこと。
死が怖いとか、ネガティブな捉え方になっちまうのは、やり残してることが多いからこそなのかなぁって、ね。

明日死ぬって決まったとしても、全力で燃焼しきって一日一日生きてたら、きっと良い人生になるのかも。

「ここにいるべきでない」って思う日が続くような生き方はしたくない。
職とか、現状とか、そんなものじゃなくて。
ただ、全力で打ち込めるものが、そこにあって、夢中になる準備がいつでも出来てる。
そんな風に毎日在りたい。

本当にそう願う。







衝動を失くさない、所詮カエルの子はカエルだから、てっぺんなんて多寡が知れてるけれど、
『笑って死ねるように、ただ必死ですよ。笑』
その言葉に尽きるような生き方したい。笑


…明日死んでも良いかい? ←自問

今は無理!

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