2013年5月1日水曜日

水。

音楽そのものになれる瞬間や、走っていて気付いたら自分で驚くくらいの距離を走っていた時など、無意識で『そのもの』になれる瞬間がある。

走るフォームを気にし過ぎて自分自身が「脚」になっていたり、格好よく奏でようとして身体全体が「腕」になっていたり。
『そのもの』になれる瞬間ってのは、何かを意識することとは真逆のところに在るように思う。

何かに捉われると、とても柔軟だった筈の心が、球から歪に固まった形に変化して、たちまちガチガチで身動きの取れない『物』になってしまうと思う。


何が言いたいかって、「自分自身で在り続けることが肝心」だってこと。
それは、誰かに説くとかでなくて、自分自身に言い聞かせたいことなんだけど。
魅せられたり、憧れたり、焦燥感に駆られたり。
自分が『そのもの』になれれば、優劣の差なんて関係ない程に、勝敗なんてどうでも良いくらいに楽しい体験になると思うから。


外部からのストレスがあるからって、自分が気を散らして良いって道理にはならないし。
せっかく色んなものを見聞きしたり体験してきたのだから、外部からの刺激に反応するだけの未熟な心でいるだけでは、勿体ないとも思う。
勿論、柔軟さは兼ね備えて。


常に『そのもの』で在りたいなら、言葉や理論、「我」に捉われるよりも速く、流れそのものに。


…そういうことを、バガボンドの最新刊を読んで感じた。笑



バガボンド、面白いよ。

捉われず、『そのもの』で在ること。
それがつまり、『自分らしい』って言える唯一のことだと思うから。
「自分」を意識してる時点で、それはもう「自分」という「そのもの」からは遠ざかってるんだろう。

結局、いつだって初心に還る。
素のままだった子供の頃が一番それに近いから。

初心忘るべからずってそういうことでもあるのかもしれないね。
どうだろうね。笑

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